TRPGの90年代と2000年代 〜その1〜

しばらくシリーズ物で考察をしてみようと試みてみる。いつまで続くかわからない。今回でやめるかもしれないし、とりあえず続くかもしれない。


【議論の出発点】
ちょっと前の日記から引用。

知り合いの古参プレイヤー(というか、宅を囲んだことのある方)に「最近のリプレイはつまんないよね。だって、冒険してないんだもの。俺たち(=冒険者)は勇者でも英雄でもないんだから、どうやって知恵を絞って生き抜くか、そこを楽しむのがTRPGの醍醐味じゃないの?」という話をされたことがある。
かなでごと(http://d.hatena.ne.jp/YukiA/20100615)一部補足

この台詞は、正直にひけらかしてしまえば、ソード・ワールド2.0を使って筆者が最初にセッションをした際に、筆者の(割と容赦のなかった)シナリオを褒めていただいた際に漏れた言葉である。具体的に言えば、SW2.0リプレイ「新米女神の勇者たち」シリーズや「アリアンロッド・リプレイ」への苦言だった。

TRPGにおける「ロールプレイ」における価値観は、プレイする人の数だけある。上で紹介したこれも、ひとつの価値観でしかない。しかし、現行の出版物のスタンスと真っ向から対立している考え方である。ちなみにこの場では、かつて同じ出版社から出ていたSWリプレイ、通称「バブリーズ」との対比を挙げて「昔は良かった」と回顧する他の人もいたことを付記しておく。筆者はこれを疑問に思った。元をたどれば同じもの、同じシステムで遊んでいた人間が、どうして現行の出版物と反対の価値観を持つに至ったのだろうか。言い換えれば、なぜ、現行の出版物は今までの価値観と逆のスタンスを持つに至ったのだろうか。


TRPG冬の時代以前・以後】
古参プレイヤーと新興プレイヤーを分ける指標として、90年代前半にTRPGセッションを行っていたか否かが問われる。

1990年代後半に一気にテーブルトークRPGのプレイ人口が減少したという意見もある。「プレイ人口が減少したために出版点数も減ることになってしまった」とつなげられることもある。
(中略)
1990年代の最盛期にTRPGに入門した多くは、ゲーム世代の若者つまりは「学生」が多かったことから、卒業や就職により引退した者も多い。ただ、これが原因でプレイ人口が減少したとすると「次の世代の学生を新しく引き入れることができなかったのか」という問題が新たに発生する。この点については今でも議論が絶えない部分である。

TRPGを始めたタイミングがこの前後によって、プレイヤーの価値観も代わってくるのではないか、という仮説を立てることは可能だ。しかし、「価値観」は一子相伝のようなもので、新しい価値観とはいったいどこが出所なのか、ということを説明するのには骨が折れる。政治のように脈々と受け継がれている一派の価値観が継承されて政局が逆転したのか、あるいは副次的要素の介入があったのか。
ひとつ、価値観にまつわる個人的な体験談を紹介しようと思う。


【信用と猜疑心の間で】
筆者自身、環境の変化によってセッション自体への不参加を余儀なくされた時期があった。4年ほどで復帰をするが、筆者の信頼する古参プレイヤーが2名参加した以外は、興味のある未経験者や新興プレイヤーで4名であった。コンシューマのRPGはやったことがあるものの、TRPGはほとんどが始めてであった。(そのため、予め、古参プレイヤーには「あくまでサポートの立場として参加してほしい」と告げてあったことを付記する。)その3回目のセッションの話について、今回の具体例としてここで挙げる。なお、ルールは当初出始めの「アリアンロッドRPG」である。

新興プレイヤーは(ロールプレイについては特に)生き生きと参加していた印象がある(演技に引っ張られて、話が進まなくなったりするほどだった。良い意味での脱線と捉えることにする)。ただ、GMはこの回、「プレイヤーが複数のNPCに猜疑心を持つ」ことを前提としてシナリオを組み、怪しいと思える(割とミエミエな)伏線も複数用意した。古参プレイヤーの助言で依頼人の裏を取るも、PCパーティは最終的に依頼人に対して半信半疑のまま依頼を進めた。結果、PC達はNPCの用意した罠にまんまと引っかかってしまった。最終的にはこの逆境を(古参プレイヤーの機転もあり)すばらしい解法で乗り越え、見事ミッション達成となったが。

シナリオのプレイバック(というか、反省会)で、新興プレイヤーの一人がこう言ったのを覚えている。

「やっぱり、だまされたりするんですね。そうですよね。そのあたりにいる人が全部いい人じゃないですもんね」

コンシューマRPG(以下「CRPG」と表記する。)は、町の人に話しかけたところで(一部の例外を除き)ほとんど襲われたり、だまされたりすることはない。CRPGは「ドラゴンクエストI」からそうであるように、「町の人=善意の情報提供者」である。伝えられる情報は、そのほとんどが正しい。彼は「情報収集ってそういうものだと思った」のだそうだ。
かたやTRPGは、CRPGと違って、情報提供者が善意とは限らない。その部分が、新興プレイヤーにとっては新鮮だったようだ。GMとして「必ずしも善意じゃないけど、嘘ばっかりじゃないよ」とよくわからんフォローをしてしまったことは反省している。古参プレイヤーは「情報の提供者の裏を取ることも時には必要、ただ信用をなくしたら話は進まないよ」と的確なフォローをしてくれた。


さて、ここで興味を引くポイントは「信用と猜疑心」――ではなく、価値観の発生起源がCRPGにある点である。TRPGにこの時代に触れることがなくとも、流行した「ドラゴンクエスト」「ファイナルファンタジー」という王道CRPGには触れている世代が、時を経てTRPGに出会い、RPG」という共通項からそういった価値観を(自らの経験を基に)捻出している
とすれば、現在のTRPGリプレイの価値観は、有名CRPGの用にヒロイックなものが好まれる、ということも推測できる。プレイヤーの分身=主人公とは、「ドラゴンクエスト」であれば勇者(5を除く)、FFであれば「○○に選ばれたもの」であるため、ヒーロー性・ヒロイン性が非常に高い(FF6とか8とかはどうなの?と思ったりするが)。




ワールドカップも見終わったし、この辺で疲れたので寝るとします。次回がもしあるなら、「商業誌のヒロイズム」あたりをネタにしようかな、と思っている。